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思いつくままに書いていきます

所信表明

 たとえばある人が青筋を立てて何かを叫んでいるとする。それを見た人は「あの人は怒っているんだな」と考える。ここで問いたいのだが、人は何故怒りという概念を理解できるのか?多くの人は確かに怒った経験をもっているだろうし、だから他人の怒りを理解できるのだ、という答えを思いつく。しかし、そう思う誰もがその彼と同じ怒りを体験したことがあるとどうして言えるのだろうか?つまり、自分が過去に感じた「怒り」が他人の「怒り」と同じ又は類するものである、と断言できるだろうか?それは全くの経験に由来する代物であり、論理的には一致しているとも一致していないとも判断出来ない。

 

 言語はある種の記号であり、私たち個々人が心の中に持っているもの(箱の中のカブトムシと言い換えるのでしょうか?無知なのでよくわかりませんが)を心の外に出す(表現・説明)する役割を担っているとは思う。そして、その役割は日々生活を送る上では問題なく機能しているが、厳密にいうと、論理的には、ある心的状態Aと別の人の心的状態Bが100%同じであるとは言い切れない。突き詰めていくと、概念、感覚、感情、思想、その他・・・(これらをまとめてクオリアと表現することに問題はないだろうか)を表すには言語活動を以ってしかないが、各言語活動が厳密にそういったことを説明できるかというのは疑問の余地が残る、ということである。

 上の例でいうと、太郎さんの怒りと花子さんの怒りは同じ怒りではない。同じ怒りとは決して断言できない。「同じだろう怒り」「極めて似ているように思われる怒り」である。

 

 私たちは他人の心的状態を推測することしかできない。だが、言語活動のおかげで推測は容易いし、その誤差も無視できる範囲に落ち着く。

 

 さらに脳の状態も問題だ。太郎さんという一個体の場合、ある脳作用Aが心的状態Pを生み出しているとする。ここで、花子さんという一個体の脳作用Aを考える時、花子さんの心的状態はPかもしれないしQでもありえる。いやむしろ、心的状態Pは太郎さんにしかないいわば一個体のみの特徴で、花子さんはどれだけ頑張っても心的状態Pを持てない、のかもしれない。そして、太郎さんと花子さんは脳作用Aの下にあって、心的状態Pと心的状態Qが違うことを理解できるのだろうか。

 

 経験的に、とは言うがこの経験はいつ、どのように獲得されていった?(先行研究はあるのでしょうか?)

 というわけで私は言語の意味を人がどういう風に理解していくのがが知りたいのである。

 

 以上のことはいわゆるクオリアの所持を前提としているため、クオリアの存在を認めなければ無に帰する議論である。

 なお、これまで書いてきたことはただの印象であり私はなんらの科学的、哲学的議論を把握していない。